坂爪真吾のオンラインサロン「新しい『性の公共』をつくるゼミ」が開設されるにあたり、本書を開いた私はある書籍のことを思い出した。
宮台真司『制服少女たちの選択』である。同書は当時社会問題化していた「援助交際」の実態を浮かび上がらせる一冊であった。宮台が残した思考の形跡は、坂爪のJKビジネスを取り巻く問題意識に、どこか通ずるものがあるのではないか。
「買う男」たちのナマの声
宮台は当時のインタビューで次のように語っている。
宮台:ブルセラ女子高生の生き方を、僕は原則的に肯定しています。高度成長期が終わったあとの成熟した社会に育った彼女たちに、輝かしい未来を夢見ることは無理なんです。(中略)輝かしい未来を信じろと言っても、無理なものは無理です。今の生活はこれからもずっと変わらない「終わりなき日常」なんです。彼女らはそんな毎日をまったりと脱力して生きています。 (「週刊宝石」1995年10月26日号 光文社)
宮台は「制服少女」たちひとりひとりを肯定する一方で、彼女らを買っている「オジサン」たちについては下記のように捉えていた。当時の買い手たちを「可哀想なルサンチマン世代」として伝えているのだ。
宮台:(※筆者注:団塊の世代は)戦後民主主義の男女共学の建前のもとで、そのくせ文部省の「純血教育の通達」の影響をもろに受けて青春時代を送った人が多いから、異性との肉体的、性的接触なんかぜんぜんなかった人たちがかなりいる。(中略)若いときに異性と交際したり、がんがんセックスできていれば、女子高生に付加価値を感じることなんかないわけですから。 (別冊宝島224『売春するニッポン』 1996年6月 宝島社)
あれから20年以上が経ち、いまふたたび「JKビジネス」が話題になっている。坂爪真吾『見えない買春の現場 「JKビジネス」のリアル』は、宮台とは異なるアプローチで児童買春に切り込んでいる。それは、売る側の女性ではなく、買う側である男性たちのナマの声を集めるというものだ。
売買春や性産業の是非を巡る議論は、それに関わる人の感情をかきたてやすい。特に児童買春のように「子ども」と「売春」という女性の感情をかきたてやすいキーワードが重なる領域では、議論の場において事実よりも感情、特に買う側の男性に対する一方的な嫌悪感や憎悪に基づいた処罰感情が優先されがちだ。しかし感情的な議論に基づいた「欠席裁判」を繰り返すだけでは、問題は永久に解決しないし、誰も救えない。 P.12
ここではじめて「法廷」に立たされることになった男性たちは、20年前と同じようにルサンチマンを抱えた「可哀想な」人々なのだろうか。本書は「JKビジネス」を利用する男性や、「裏モノJAPAN」元編集者の本音を聞くことによって、現代社会における「JKビジネス」のリアルを明らかにしていく。
JK不在の「JK風リフレ」、メディアが生んだ「JKリフレ」の誤解
坂爪は、はじめにJKビジネスや児童買春のリアルに関わる事実を整理する。JKビジネスが目立ち始めたのは2012年の初め頃だという。
「女子高生をはじめとする未成年の少女が、ハグや膝枕、添い寝といった風営法に抵触しない程度のふれあいサービス(リフレクソロジー)を提供する店舗=『JKリフレ」が登場』した(P.118)
元々はJKリフレとは「2.5次元」の女子(アニメキャラクターと生身のあいだ、男性がファンタジーとして思い描く理想の女子高生像)たちが、オタク系の男性に「ふれあいサービス」する業態だった。しかし合法的に未成年と出会えることを知った「肉食系の買春男性層」が店に来るに連れて、サービス内容が変わっていく。当初は行われなかった性的サービス、いわゆる「裏オプション」が横行するようになり、「2.5次元」の女子たち(黒髪や清純派)は鳴りを潜め、ギャル系の少女たちが働くようになった。
過熱する「JKビジネス」に警察のメスが入ったのは2013年1月末。秋葉原や池袋のJKリフレ店が摘発され、15歳から17歳の少女76人が保護される。
このように18歳未満の少女を働かせていた業者は一斉摘発され、現役女子高生のいるJKリフレ店は最盛期に比べて格段に減った。現在も都内には18歳未満の現役女子高生が働くJKリフレ店は数カ所あるというが、「JKリフレ」をうたっている店舗のほとんどは、「JK風リフレ」であり、18歳未満の少女が働いていることはまずない。そしてそのサービス内容といえば、会話やマッサージ、ハグや添い寝だ。「JKリフレ」は始まったころの「ふれあい」の提供に業態を戻した。それは風俗店のような性的サービスとは根本的に異なる。
では、現役女子高生が働いておらず、性的サービスもない「JK風リフレ」に男性たちが通う理由はどこにあるのだろうか。
JKリフレでコミュ力アップ!?
坂爪に言わせれば「大半の男性客は、特に未成年へのこだわりを持っていない(P.174)」のだという。それでも彼らが「JK風リフレ」に行くのは、「黒髪・清楚」な女子たちの「素人っぽさ」に惹かれるからだ。
「JKリフレには風俗慣れしていない男性や、風俗の『作業感』を嫌う男性が集まるという。予め決められたメニューを、女性が作業の如く淡々とこなすだけになりがちな風俗と比べれば、リフレには素人っぽさがあり、それゆえの癒しを得られる。若い女の子と秘密に楽しいことをしている背徳感も得られる」(P.178)
彼らは性欲のはけ口としてではなく、あくまでも「素人っぽい」若い女の子たちとのコミュニケーションやふれあいの場として、「JKリフレ」を利用している。風俗店やキャバクラに務めるプロの淡々とした接客ではなく、「素人っぽい」女子とのコミュニケーションが、彼らに癒しを与えているのだ。
また《ふつうの女子》と親密な会話が行える「JKリフレ」に通うことで、日常生活においても女性と上手くコミュニケーションができるようになったという男性もいる。
このような「JKリフレ」の実態を受け、「JKリフレ」はある種の「教育機関」としての役割を担っていると指摘する。
JKリフレは児童買春の温床になってしまう可能性も秘めているが、規制が進んで未成年がほとんど働いていない状況になった現在は、むしろ生身の女性と恋愛ができるレベルまで男性のコミュニケーション・スキルを底上げして、結果的に売春から遠ざける「教育機関」としての役割も担っているのではないだろうか。 (P.216)
JKリフレと社会福祉の連携可能性
売春は人類最古の職業のひとつだといわれる。人々のモラルに訴えかけて売買春を撲滅しようとしても、あの手この手で人の欲望を捕らえようとする性産業を捉えていくのは難しい。
また売買春の厳罰化は、しばしば警察と業者のイタチごっこを生む。そのうえ厳罰化によって業者はアングラ化し、そこで働く女性たちは社会の目が届かないところでより危険な性労働に携わることになることもある。
そういった点を踏まえ、坂爪はJKリフレ問題において重要なのは次の二点であるという。
ひとつは各店舗を見える化すること。「児童買春の生まれやすい現場」をマップ化し「道路地図」を描くのだ。これは、「JKリフレ」をデリヘルなどと同じように届出制にして公安委員会の監督下に置き、社会のなかに組み込むことで、健全性を担保することを意味する。
そしてもうひとつは、その地図を使ってJKリフレで働く、福祉を必要とした若い女性たちを救うことだ。「JK風リフレと社会福祉の連携」ができれば、そこで働く高校中退・卒業した18〜19歳の未成年女性たちに支援の手を届けやすくなる。彼女たちは「福祉の世界では支援を届けにくい谷間の存在」だが、「JKリフレ」と福祉が連携することで、彼女たちに福祉の支援を届ける回路がつくれる。
こういった提案は、実際に自身が運営するNPOで、無店舗型性風俗店の待機部屋に弁護士・社会福祉士・臨床心理士を派遣し、直接生活・法律相談を行う『風テラス』という活動を行っている坂爪ならではだ。現場の小さな声を拾い上げ、問題解決のために行動している彼の提言は感情論に終始せず、リアリティのある解決案となっているように思える。
坂爪真吾の巧みな比喩と文章
以上のような事実の整理、具体的な提言内容は本書の大きな魅力の一つである。しかし、それ以上に私が皆さんに本書を実際に手に取ってもらいたいと考える理由の一つは、坂爪の言語センスの良さにある。
坂爪は、間違いなく本書のターゲットを「JKビジネスのリアル」を知らない人たちに設定しているだろう。そして、そういった人たちの誤解を丹念に解いていくような比喩を多用する。
買春を身体に悪いと分かっていてもついつい食べてしまう「ポテトチップス」に例えてみたり、誰もが持っているスマートフォンが売買春の方法として使われることで少女は思わぬ性被害に巻き込まれ、男性は意図せずに未成年淫交を犯してしまう様子を「交通事故」になぞらえる。こういった比喩が非常にわかりやすい。
身体に悪いと分かっていてもポテトチップスを食べてしまうことや、交通事故が起こってしまうのは、モラルの問題ではなく環境が引き起こすトラブルだ。したがって、問題を解決するために必要なのはモラルの啓発活動ではなく(もちろんそれもある程度必要なのだが)社会環境の整備ということになる。
最後に、「あとがき」にある印象的な文章を引用させて頂けたらと思う。秋葉原で関係者を取材した帰り道、坂爪が総武線の中でもの思いに耽るシーンだ。
帰りの総武線の電車の中で私の頭に浮かんだのは、「街の視点」の必要性だった。本書では「買う男性」の視点から買春の問題を考えてきたが、日々刻々と変化する「児童買春の生まれやすい現場」を可視化するための「道路地図」を作るためには、「売る少女」と「買う男性」という二つの視点に加えて、第三の視点=売買春の舞台である「街の視点」が必要になる。児童買春を巡る「買う男・売る少女の安易な物語化」によって悪役に祭り上げられるのは、買う男性だけではない。一つの街、そしてその街の中で暮らしている無辜の人たちも、場合によってはいわれのない風評被害を受けてしまうことがある。 (P.255)
坂爪はどこまでいっても誰かを悪者にするつもりはない。本書の最後に及んでも、社会の矛盾から発生した災いが、風評被害という形で特定の対象に飛び火してしまうことを恐れていた。
同時に、この「あとがき」に書かれた文章は、自身が次に向き合うべき問いを設定したことを意味していると言える。坂爪は、これからも独自のスタンス、視点で性産業や売買春の問題に対峙していく。
その様子をリアルタイムで追いたい、また自身でも探求してみたいと思う方は、是非オンラインサロン「新しい『性の公共』をつくるゼミ」も覗いてみて欲しい。
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